八雁短歌会

やかり

阿木津英評論集『方代を読む』抜粋

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一粒の卵
本書二十四ページ
一粒の卵のような一日をわがふところに温めている
 『かまくら春秋』昭和五十六年六月号では、この歌は次のようであった。右初出は『うた』同年七月号。
短い一日である一粒の卵のような一日でもあったよ
 卵は、昔のひとには貴重品。病人の栄養補給品でもあって、方代にもそんな歌があった。「一粒の卵のような一日」は、そんな貴重な一日だという、比喩としてもわかりやすい比喩だ。
 ところが、「一粒の卵のような一日」とここから始めると、「卵」から鳥の抱卵を連想して「わがふところに温めている」となる。「温めている」で、にっこりほっこりしている歌の姿が現れ出る。こんな一日だったよと〈われ〉の単純に述べる歌が、掲出歌では主体は抱卵の鳥なのか〈われ〉なのかといった歌に変ずる。
 こうして原作改作並べてみると、いかにもやすやすと改作が現れ出たかのように見えるけれど、くるっと扉をひらくような一大飛躍が必要だったのではあるまいか。そう、同じ作者としては思わずにはいられない。


石から石へ
本書二十五ページ
両の手を空へかかげて川べりの石から石へはばたいていた
 「石の笑い」の歌群をただちに連想させる歌だ。ここは、〈不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている〉ような、石ころだらけの川べりであるに違いない。
 頭のでっかちな老人が両手をぱたぱたさせながら、石から石へかろやかに、笑いながら、足を浮かして飛んでいる姿が目に見えるようだ。クレパス画のような描線で、絵本の絵のようでも、漫画のようでもある。こっけいみがある。
 「両の手」とはすなわち鳥の翼の比喩にもなる。一首は翼と言わなかっただけのこと、翼をかかげて川べりの石から石へはばたいていたという、鳥の擬人化の歌とも言えよう。ところが、歌に見えてくる姿は、どうしても鳥ではない。頭がちな老人が両手をぱたぱたさせて飛んでいる姿しか、見えてこない。それを不思議に思うのだ。
 「はばたいていた」――物語るかたちである。わたしは昔そうしていたよ、というのか、そういう場面を見たよ、というのか。
柿の木の梢に止りほいほいと口から種を吹き出しておる
 「キリスト様」の歌と同じ連作中にある一首だが、これも、鳥とも人とも定まらない歌であった。
 子どもの頃、柿の木や枇杷の木、ぐみの木などにのぼって、熟れた実を取って食べては、樹上から種を吐き捨てたものだ。そういう記憶が蘇って、樹上にいるのは人だとまず思う。ところが、ここでは「梢」である。「梢に止」ることのできるのは鳥だろう。さて、鳥かと思えば、嘴ではなく「口から種を吹き出」す。
 「石から石へ」の歌も同じで、鳥を擬人化したのでもなく、人を鳥に喩えたのでもない。比喩の技法におさまりきらないところが、じつにおもしろい。鳥でもあり、人でもある。どちらでもあるような姿が、「石から石へ」の歌では、はっきりとまなうらに描ける。
柿の木の(うれ)から落ちてたっぷりと浮世の夢を味わいにけり
 こんな歌も、「石から石へ」の直前にはあった。「石の笑い」の初案〈しののめの下界に立ちて突然の石のわらいを耳にはさみぬ〉に類する発想をもつ。翼を持つ者、飛ぶことのできる者が、誤ってどじを踏んで地上におっこちる。石はそれを見てくすくす笑うのだし、柿の木から落ちたものは、罰として辛酸渋苦もたっぷりまじった浮世の夢を味わうことになる。
 
 

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