跋文
阿木津 英
夫の背のぬくもりを背にまどろめりずり落つる屋根の雪を聞きつつ
朝日カルチャーセンター立川教室に来はじめた頃、藤井征子さんは、こんな歌を出して皆の心を浮き立たせてくれた。満ち足りた幸せな日々の生活がうかがわれるような歌である。子どもたちは成長したが、可愛い犬がいる。藤井さんは、栗鼠をうたい、猫をうたい、小鳥をうたうが、いちばん好きなのは犬らしい。それから、植物をうたい、旅で出会った少女をうたう。
旅支度する足もとにわが犬はくはへしボール遊べと落とす
ラマ寺のガイドの少女あいらしきひたむきに述べて鼻に息吸ふ
わが足を追ひ疲れしか猫の仔はスリッパに縋り眠り込みたり
さをとめの髪掻き上ぐる如くしてわが束ねやる水仙の葉を
靴脱ぐや跳びつき鼻を舐めむとすかくも欣ぶことひとはせず
わが枝を払ふ隣の木に止まり何してるのと問ふジョウビタキ
たまたま目についたものを引いたが、この歌集のどこにも、愛らしい生きものの姿がある。花どきの終わった水仙の葉を「さをとめの髪掻き上ぐる如くして」掻き上げる仕草には、幼い娘の髪を束ねてやった手の記憶がよみがえったのかもしれない。「何してるのと問ふジョウビタキ」は、擬人化というより小鳥語が聞こえたというふうである。
このような歌の根源にあるものを何と言えばよいのだろう。慈愛とかいつくしみとか言いあらわしてみるが、どうもしっくり来ない。もちろん「母性」などといった概念で漉されたものでもない。すぐ傍にいる通じ合う存在といった感じがするのである。これもアニミズムなどと言ってしまうと、また何だかことごとしい。
あらゆる生きものに隔てのない心。区別立てしない心。そのように、藤井征子さんの歌の本質を言ってみようかと思う。外国旅行が好きで、世界中を旅した歌がたくさん入っているが、それもこの「区別立てしない心」が働いているのかもしれない。
だが、どんな幸せな日々のなかにも一筋の悲しみは綯い混ざっているものだ。
今日の日をわれの帰ると知りたるか母の眼に涙滲み出づ
細り行く母の終末の息づきの聞こゆるごとし夕ぐれの庭
藤井さんは、関門海峡を見わたす門司の生まれだが、施設にいる母を見舞いにおりおり帰っていた。その帰省も、終わる日が来た。
わが犬の墓に植ゑたるそよごの木春の嵐に泣くごとく揺る
長いあいだ共に暮らした犬の死は、人と同じように――しばしばそれよりもいっそう悲しい。「そよご」という音がうつくしく、この歌を読むときいつもビリー・ホリディの「willow weep for me」がわたしの耳に聞こえて、胸を揺すぶられる。
こうした日々に、思いがけない運命の一撃がやってきた。海が好きだった息子の事故死である。
耐へがたし愛しき者を逝かするは次はわたしを逝かせてください
哀しみは母のみならず身悶えつつ砂地に伏して恋人が泣く
悲しみをやらはんとてか草毟る暑き日中を夫の背濡れて
スコップの先に抉じあぐ鈴蘭の根のちぎれゆく音を聞きつつ
繁りたる葉群の隙を青空の光さしくる痛みのごとく
まだ若い息子を死なせた痛撃はたとえようもなく深い。庭仕事をするときにも根のちぎれる音に痛みを覚え、葉群の間の青い光にも痛みを覚える。
この歌集のⅡよりあとの歌には、日々のおりふしに突如として現れる痛みの記憶が、気づく人だけが気づくといったふうにひそやかに点綴されている。そんな読み過ごされそうな歌に籠もる悲しみは、さらにふかい。
それほどの悲痛も、やがてゆるぶ日が来た。
こころもち膨らかなる胎撫でながら娘歩み来春日浴びつつ
新しい生命を得て、初めて安堵したかのように、歌が明るい。娘は、かの夏の日の歌「恋人もまた妹も欲しがりて末期の胸のイルカの飾り」、その冷えきった胸につけていたイルカのペンダントを欲しがった「妹」であろう。ガンジス川にともに散骨に行ってくれた娘でもある。そんな娘の受胎はかくべつの回復の力をもつかのようだ。
ゆらゆらと黒潮に透くひかり浴び汝が魂のいづへにあるや
もちろん、忘れられはしないが、ゆるやかに受容できる時が来た。
耐えがたい運命の一撃だったが、藤井さんの根源にある生あるものに隔てのない心は、翳りを帯びることによって、いっそう複雑にゆたかに繁っていったはずである。
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