八雁短歌会

やかり

阿木津英『短歌講座キャラバン』抜粋

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捨てられなかった切り抜きから
(本書一三七ページ)
 川田正子という童謡歌手がいた。少女時代に吹き込んだ復刻版レコードを長いあいだ聞く気になれなかったという。録音したころ、すでに変声期にさしかかっており、絶叫しているみたいで最低の出来だと思っていた。

 あるラジオ番組で、復刻版を流すことになりました。内心いやだなと思っていたのですけれども、あらためて聴いてみて、驚いたことがありました。声が出ていないにもかかわらず、本当に精いっぱい、けなげに歌っているのがひしひしと伝わってきたのです。
 久しぶりに出会った幼いころの自分は、恐ろしいほど歌に忠実で、ひたむきでした。無心で歌う少女の力が迫ってきて、懐かしさを覚えるというより、なぜか悲しくなるほどでした。
 口先で歌っても人は感動してくれないのだと気づきました。子供が技術をひけらかすわけでもなく、ただ一心に歌う時、上手下手を超越するのです。

 いつの日付か、東京新聞夕刊の「この道」川田正子第七十回目、何度も引き出しから捨てようと思ったが、捨てられなかった切り抜きである。
 山崎浩子という新体操の選手がいた。小学校時代、バドミントンが流行ったことがあった。ある日、サーブに初挑戦、思い切りラケットを振りかぶる。空振り。向こう側の友だちがクスッと笑った。もう一度、しっかりとシャトルを見つめて放り上げ、振りかぶった。かすりもしない。クラスメート全員がどっと笑った。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、何度かトライ。けれどラケットにシャトルは触れもしない。みんながお腹を抱えて笑っている姿だけが目に焼き付いた。
 普通であれば、二度とバドミントンはしないところだろう。山崎浩子は違っていた。母親にバドミントンセットを買って貰って、裏山で一人、毎日サーブ練習を始めた。そして、何と、一ヶ月かかってサーブを習得。一ヶ月……。
 新体操を始めてからも、普通なら一日でできるボールの胸転がしやロープの後ろ二重飛びに、二週間もかかった。
 「不器用以外の何ものでもない。でもだからこそ、一度覚えたコツは忘れない。なぜできないのか、どうやったらできるようになるのかを考え抜いて苦労して身につけた技。そう簡単に忘れてなるものかという感じである」「不器用だからと恥じることはない」「ただ人の数倍努力すればいいだけのことである」。
 どうしても捨てられなかった二枚の切り抜きを、ようやく屑籠の中へ入れることができた。
    
(キャラバン72号後記 2005年10月発行)

決定版はない
(本書八八ページ)
 升田幸三という将棋指しがいたのを覚えているでしょう。わたしは、勝負事にうとく、全く関心がない方だが、あの長髪の、痩せた着物姿の老人の写真は、人をひきつけるものがあった。
 先日、図書館の新刊の棚に『勝負』と大書した升田幸三の本を見つけたのである。奥付を見ると、昭和四五年にサンケイ新聞から発行されたもの。定価五〇〇円。どうして、新刊の棚にまぎれこんだものか――。
 さて、これがおもしろい。
 男どもが血道をあげる将棋だの碁だの、ああいう勝負事、ゲームの経験は、いわば世の中を渡ってゆくときのシュミレーションに他ならない。いったい、それはどんな経験か。「将棋的思考法による〃勝負と人生〃を若いサラリーマンに向けて語る」という意図をもつこの本、男の世界を覗いてなるほどと、脳裏に刻みつけておくべき部分は多々あった。
 将棋は駒と駒との闘いだから、まあ、それは当然のこと。しかし、じつは三十一文字という歌の形式そのものが、将棋盤のマス目みたいなところがあるのである。

 将棋のなかでは、これが絶対だという手はありませんね。
 いつも局面の流れのなかで、駒を組みなおしながらすすめてゆく。
 だから固定したもんじゃない。自由にしておく。それが真の定跡というものなんです。
 ただし、ルール違反はいけない。

 わたしたちの作る歌も、これが絶対の決定稿、なんてものはない。一語が変われば全体が組みなおされなければならない。胸中に思い描いている姿に到達すべく呻吟するのだけれども、その到達点は唯一無二ということはない。盤上(三十一文字)に得た駒(言葉)の性質によって、動かし方がある程度決まっており、その性質に従って、全体構成を見ながら、より良い局面へと組みなおし組みなおししながら、進めてゆくものなのだ。胸中に思い描いている姿ばかりにこだわっていると、不自由だ。つらい。苦しい。部分にこだわって、ることができずに、へしゃげてしまうから。
 かといって「ルール違反はいけない」というのも、含蓄がある言葉だ。駒の性質を充分に理解してもいないくせに、拘束はいやだの自由だのとやるのは、たんなるオロカというものだ。

 全体構成というものは、組みなおし組みなおししながらゆくんです。それが出来ないのは、未熟なるゆえか、順調にいっているのか、どっちかです。(略)だから、ものをきめる場合に決定版のきめ方をしておくのはいけない。

 えらいものだ。歌もいくらか未熟の域を出ると、とたんに迷い出すのは、こういうこと。それに、順調に行ける時期はそうないのだから、おおむね、組みなおし組みなおししてゆくことになる。決定版というものはないし、あっちゃいけない、というところ、じつに味わうべきである。    
(キャラバン51号 2000年4~6月)

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