八雁短歌会

やかり

乾正歌集『寒葵』跋文

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跋文
阿木津 英
わが庭の源平桃のくれないを道ゆく人の讃うる聞こゆ
二十年出で入りのたびに(くぐ)りたる(もん)(かむ)りの松截り倒されつ
松の樹を截ればたちまち切り口に(まつ)(やに)滲む生きたかりしか
()()(たま)の根は新藁に巻かれたりいずべの庭に行きて根づかむ
朴の木とヒマラヤ杉と檜葉の木と切り倒されてわが庭あわれ

 歌集『寒葵』は、「わが庭」とそこに住んだある老夫婦のものがたりである。源平桃、松、小賀玉、朴の木、ヒマラヤ杉、檜葉。たった四、五首を見ても、これほどの大木になる樹木の植わっている庭は、ふつうの家の庭ではない。松の樹を切れば「松脂滲む生きたかりしか」とつぶやき、小賀玉の木の行く先を思い遣り、見事な大樹を何本も切り倒された「わが庭」をあわれと嘆く。草木にも地にも濃い思いが移って、ほとんど同化している。そんな乾さんの「わが庭」の由来を語ろう。
 夫の喜八郎さんは、戦後経済右肩上がりの時代に山一証券に入社した。一高から東大法学部卒という学歴からして当然役員になってもよかったのだろうが、憤然と「植木師になる」と宣言して定年退職した。職業訓練校で若い青年たちと机を並べ、それから親方のもとに弟子入りした。ところが、親方は職人で、定年上がりだからといって新入りに手加減はしない。三日で音をあげそうな気配を見た正さんは、これはたいへん、オトコが廃るとばかりに、毎日お弁当を作り水筒をもたせて玄関から追い出した。こうして、みごとに一人前になった喜八郎さんは、植木師の〈制服〉である法被を誇らしげに着て旧友の家に年始の挨拶に行くのであった。
 しかし、お客がつかない。仕事がない。そこで、正さんが、日本女子大学同窓生のあちこちに電話をかけて、こんどうちのが植木師になったからお宅の庭に鋏を入れさせてくれないかと営業、注文がとれれば少々遠くとも、朝早くから軽トラックに用具を乗せて夫婦して出かける。夫の喜八郎さんが植木に鋏を入れれば、下でその枝を拾い集めるのは正さんである。熊谷守一の娘榧(かや)さんは親友の一人だそうだが、いそいそと枝拾いをする正さんに「あなた、よくやるわねぇ」と半ば呆れて感嘆したものだという。
 喜八郎さんと正さんは、こんな老夫婦だった。喜八郎さんのような純心な人をわたしは見たことがない。生き馬の目を抜く証券会社でよく生きのびたものだといつも思った。そして正さんは童女のような人である。

桜木の朽ちし窪みに落ちたるを定めと芽吹く紫しきぶ
雪消えて芝生に群るる椋鳥はししと(はし)さす(ひもじ)かりしや
桃の枝の樹液固まる疵あとを慰めむとか蔦這いのぼる
桜の木ふり仰ぎつつゆくわれをのどけしと見る人あるらむか
梅雨ばれに窓開け放ちわれ仰ぐみ空の青き音をきかむと

 理学部出身らしくさばさばと合理的な性格だが、知的で、ものを見抜く目をもっている。腐葉土のように生の苦しみや喜びを身のうちにたたんで、ものに触れては生のあわれを感じてゆく心がある。そうしてなお童女のように、梅雨晴れの日には窓を開け放って「み空の青き音」を聞くのである。
 「わが庭」は、こんな二人が一木一草に心を入れてつちかった庭であった。歌集の「Ⅰ」には、「わが庭」から生まれたじつにゆたかな、感嘆するような歌の数々がならんでいる。歌の醍醐味を味わうことができる。
 正さんの母親のことも少し記しておこう。

「子育てだけなら猫にも出来る」と満足をしているわれを母嘆きたり
叙勲受けよろこぶ母に何が良しと言い放ちたり二十歳(はたち)のわれは
七十はかく疲るるにメキシコへ婦人会議に母はゆきにし

 正さんは東京生まれだが、旧姓を浅沼といい、八丈島の出身だ。母方は代々町長をつとめた家柄で、かの浅沼稲次郎も親戚関係にあるそうだが、正さんの母親はそんな政治向きの血筋をひいてか、明治生まれの〈新しい女〉の一人であった。ふとテレビをつけると何かの反対運動をする市川房枝といっしょに映っていたり、脅しにかかるやくざの前にも怯むことなく身を張って筋を通したり、豪傑であったそうだが、そんな〈新しい女〉の母親は子どもにとっては多少の迷惑である。母親に反発して「猫にも出来る」子育てに専念し、よき主婦をつとめてきた正さんだった。

いとけなく清きまなこに()を見つむ(なずき)になにを刻まんとすか
今宵よりながき一生(ひとよ)ぞ保育器のガラスのうちに足掻ける汝よ
嫁という言葉きらいて子のつれあい子の奥さんなどくるしむわれは

しかし、初孫を授かった歓びをうたっても、正さんの歌は血縁に癒着しないまなざしをもつ。乾さんには二人の息子があったはずだが、集中に子の歌はほとんどない。成長した子は子として切り離し、嫁という言葉をきらうリベラルな精神は、やはり母親の影響によるものだろう。
 正さんは、朝日カルチャー立川の教室で歌を始めた。喜八郎さんの病気がきっかけでもあったようだ。前立腺癌を宣告された喜八郎さんは、正さんが短歌を学んでいるあいだに、学徒出陣逃れでどこか医大に一時在籍したともいう知識を頼りに調べ上げて、ついに病を克服してしまった。

徳田白楊の歌の沁むらしいくたびも諳んず夫は座椅子に寄りて

 喜八郎さんは、正さんが短歌を学ぶのをよろこび、その良き後援者でもあった。九州で開催される「牙」の大会に夫婦して参加し、「あまだむ」の年一回の集会には両手に余るほどのかぐわしいジンジャーやサンナの花束を持参してくれた。やがて体調の軽快した頃、喜八郎さんも短歌を学び始めることになった。

辞書ひとつ引っぱり合って虫眼鏡あてて見ている老いたるわれら
老夫の机に向かい歌綴るひたぶるのさま羨しきろかも
夫と共に歌学ぶとは思わざりき連れ立ち通うその愉しさも
目をのがれ買い来し酒をごぼごぼと流し捨てたり涙垂りつつ
向き合いて歌をつくるも楽しきよ馬酔木の花が咲いたなど言いて
老いてより再びともに部屋に寝て安らぎにけりわが(おっと)にて

 「あまだむ」の歌会に夫婦そろって参加し、カルチャー教室でも毎週机を並べ、みんなと八ヶ岳に一泊の吟行旅行をした。正さんは夫婦して同じところに通うなんてとはじめは思ったらしいが、いざ通い始めてみると、新しい夫の姿を見るようである。すでに自分にはない初心の懸命さがまぶしい。共に歌に励み合うたのしさは格別である。当時の教室では終わったあとに必ずビールを一杯やったものだが、喜八郎さんも旧制高校の青春時代が甦ったような愉しさがあったのだろう。こっそりと酒を買い込んでくるような仕業は、教室の悪友ならびに講師のわたくしどもの影響である。申し訳ないことであった。
 歌集『寒葵』の「Ⅱ」の時期に、『乾喜八郎歌集』は重なる。喜八郎さんの歌をいくつか掲げておこう。

斑鳩町の法隆寺こそなつかしけれミス橿原と見合ひせし日よ
算術の予習は楽し義姉(あね)上の鬢のほつれ毛吾が頬にふる
花水木の下の地植(ぢうゑ)のえびねども赤き落葉を着てぬくさうな
生徒らの出征するとき校長はあんばいよくやれとはげましたりき
生きものは一日飼へばかはゆくて分かれがたくて楽しきものよ
ドイツを賞め戦争たたへしドイツ語教授立沢剛負けて自死せり
公園のあけぼの杉は紅葉(もみぢ)して茶いろの円錐(とを)立ちならぶ
『乾喜八郎歌集』

 こうして歌を写していると、あの教室での笑いが甦ってくる。無邪気で、このうえない純心な魂をもっている人であった。
 そんな喜八郎さんにも衰えが見えるようになったある日、突然「わが庭」の小平から、現在の東村山のケア・マンションに夫婦して引っ越したという知らせが来た。歌集『寒葵』の「Ⅲ」は、それ以降の歌をおさめる。

家を出る車を待たせてカタクリの芽は出でたるかたしかめに行く
再びをもどることなきこの家よ三十年(みそとせ)住みき良き日もありて
鷹の台駅過ぐるとき電車より身をのり出してわが家のぞむ
食堂へ続く廊下は人気(ひとけ)なしながき廊下を腕くみてゆく
草も木も培うことのなくなりてなにを頼りにわれら生くべき
わが家の門は錠さし(はい)れざる臘梅の香のほのかに香る
木の名前教えくれにし庭の木のすべてを切りて根さえ引き抜く
食拒みて死なせてくれという夫はただ本をのみ読まむとぞする
ならびたる夜店の庭木に興味なし庭うしないしわれ等にあれば
人ごみに老いたる夫の服の端にぎりて歩く夜の祭よ

 「転居」以後「わが庭恋し」を中心とするこれらの歌に、わたしは加える言葉をもたない。老後の家族関係の歪(ひず)みと苦しみはどこにでもあること、いさぎよくマンションに住むことを決めた正さんを正さんらしいとは思うものの、「わが庭」の喪失は喜八郎さんにも正さんにもあまりにもつらかった。あるとき、電車に乗って「わが庭」をこっそり見に行ったのだろう。そこには錠がかかっていた。錠前越しに「わが庭」の虚しい空間を見つめた。
 歌がいいとか悪いとかいうことを超えて、胸がせつなくなる。人はこんなふうに老いの最後の時を過ごさなければならないものだろうか。

草むらに金襴なりと夫のさすひともと高しゆらぎ止まずも
ずぶずぶと厚く積みたる枯葉ふみ夫とわれとはしゃぎてあゆむ
今日もまたわれらは森のベンチにて高空を行く飛行機を待つ
尾根道を夫と歩くが終る日のやがては来らむ空を仰げり

 老夫婦は裏の八国山をふたりで散歩するなぐさめを見出した。植物の名前を夫に教えてもらいながら、時に子どものように枯葉と戯れ、それからベンチに坐ってやすむ。
 「飛行機がまだ来ないね」
 「もうすぐ来ますよ」
 ふたりは青いそらをまぶしみながら仰いで、飛行機の来るのを待っている。
 
 
 

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