2012年1月 創刊の辞 阿木津 英
1974年1月、十年間の東京生活を終えて帰郷した石田比呂志は、地方結社誌として第二次「牙」を復刊した。その後の「牙」と石田比呂志を貫くものは、中央に対する地方にあって、中央に在るに劣らぬ高い文学性をもとめようとするところにあった。しかも、草陰に埋もれながら一心に歌を行ずる無名の人々をこよなく愛惜し、尊重した。
地方性(すなわち辺境にあること)と無名性の尊重、これを「八雁」は継承する。今後に短歌というものが生き続けてゆくとすれば、ここにこそ希望がある。
世界のなかにあって日本語は地方言語である。資本主義が高度に浸潤した社会にあっては、創作は根本から変質を余儀なくされる。21世紀の彼方を遠望すれば、日本語も歌も淘汰さるべき運命にあるかのように見える。しかし、人が人であるかぎり、食って排泄し、目覚めて眠り、過去を振り返り未来を思う存在であるかぎり、そのような淘汰の根切りには堪え得ないだろう。
根を切られたものは、死ぬ。どのような環境にあっても根づよく、再生するちからをもつものは生きのびる。地方性と無名性のもつ根づよさだけが、現代の、そして予測される未来の希望であるだろう。
また、石田比呂志からわたしたちが継承するものは、その学びの精神である。歌人としての石田比呂志は、石ころだらけの原に根をおろしたも同然だった。少年の頃、石川啄木に出会ったきりで、現代短歌の歌集一冊すら知らず、師といえるような存在に手ほどきをうけたわけでもなかった。ただひたすらにもとめるものに向かって、みずから学んだ。
18世紀、身分差別のあった江戸時代の大阪に、町人たちが学びへの意欲やみがたく学者と連携して創建した懐徳堂という学問所があった。そろばんや道徳のような実用向きではない。「自然・人間・社会認識を包括する知識の体系」(子安宣邦)すなわち人間とは何かということを探求する学びが、そこにはあった。
農民も、町人も、士族も、学びたいものなら誰であろうが、学ぶことのできる場であった。
伊藤仁斎は、京都堀川に古義堂を開設すると同時に、「同志会」という自主学習組織を作った。「聖人の道への志を同じくするものが相集い、励まし合い、学問に努める組織」(同前)である。そこでは、仁斎も一人の同志であった。先達ではあるが、師匠でも教師でもない。
その同志会規則の最後にはつぎのように記すという。
「一切世俗の利害、人家の短長、および富貴利達、飲味服章の語、最も当に誡しむべし」。
世俗の利害をそんたくしたり、出自をうんぬんしたり、富貴利達をはかったりすることは、学びの志のまえに不純である。
このような自生的な学びへの意欲が、かの石田比呂志にも脈々とながれていた。わたしたちもまた、みずからの学びの意欲にしたがって、ひたすらにもとめるものを探ろう。「第二次〈牙〉は、作品第一主義でゆきます。作家的力量以外の何ものをも通用しません。(略)独善は常に戒むべきです。又、相互研鑽を峻烈にします。火はいつも内部にこそ燃えているべきです」―この「牙再刊の辞」の言葉は、今のわたしたちのものでもある。
「八雁」という語は、『古代歌謡集』(日本古典文学大系)の鳥名子舞歌、
天なるや 八雁が中なるや 我人の子 さあれどもや 八雁が中なるや 我人の子
からとった。もと伊勢の風俗舞で、童男童女が歌いながら舞う神事歌謡だという。
石田比呂志の遺詠となった「冬湖」三十首のなかに、三首一組のつぎのような歌がある。
天翔くるあれはかりがね水茎の無沙汰の詫びの文を銜えて
殿の一羽縋らせ棹となる羈旅の行手に恙あらすな
かりがねのはぐれ一羽か月の夜を羽いじらしく広げて飛ぶも
韻きのうつくしさに幾たびも読んでおよそ一ヶ月半余りも過ぎたある日、ふとここにひそむ祈りの意味に気づいた。大空をまぶしみながらいま飛翔したばかりのかりがねの群を見上げるのは、彼の岸に立っている石田比呂志である。