跋文
林ひかるさんが初めて教室に顔を出したとき、まだ四十代だったのではないか。長い髪を束ねて、身に纏うものの色彩感覚が際立つ、ほっそりとしたうつくしい人だった。人目に立つうつくしさに反して、過敏すぎるほど繊細な神経をもつ控えめな性格であることもうかがわれた。それでいて、歌はおどろくほどに率直で、いつわりがない。誰でもおのずから防御を張る一線があるものだが、それがない。文学するものの心の据えようを初めから知っていた。
乳呑み児をショールでくるんでかの橋を渡りき風は頬に冷たく
ごく初期の頃にこんな歌を見て、ああ、と思った。死の淵をさまよったこともあったのだ。表向きとは違って、心の芯にうすら寒い思いを抱えながら生きてきたのだろう。
ある日、傷みやすい神経に耐えながら過ごす母親を見かねて、下の息子が言った。
十九なる息子は膝を抱きながらノラになれよと吾に言いけり
『人形の家』の女主人公ノラのように、家を出る――。このまま死灰のような日々を一生つづけるか、思いきって新しい世界をひらいてみるか。
別るるとわが言えば母の目は憂うかすかな安堵の色を浮かべて
痛みつつ傷つけ合いし一年よ底冷えの夜のカレンダー見上ぐ
婚家より吾と息子と出でし日を母は祝日のごとくに言えり
母は、同じ女として、見ていられなかった。まして、〈結納はあなたを買うと同じこと厳しき面に母は言いにき〉――そう言ったことのある母である。女だって魂をもつ一人の人間だ。
君とわれと別れの言葉抱きつつ暮れゆく秋の観覧車に乗る
しかし、男はうかつな生き物である。どれほど痛めつけても女は許してくれると思い込んでいる。別れの言葉が女の口から出ようとは、夢にも思わない。自分の裏切りはともかく、女の裏切りは許せない。別れを切り出した方が恨まれる。
灯のともる窓辺に見えて夕餉する一家族ありひとは哀しも
われと子と黙したるまま吐く煙融けて消えゆくレンジフードに
つれあいの炊く里芋の匂い来ぬ熱に臥したるわが枕辺に
哀しみを湛えて責むる子の膝に猫眠りいる真夜となりたり
息子には母の保護者たらねばならないという青年らしい気負いがあったのだろう。だが、母には新たな「つれあい」があった。その愛憎せめぎあうくるしみの生活のなかに、猫たちがやってくる――。
このようにして始まる『寒椿』一巻は、ひとりの女性が生きる意味をもとめて彷徨した魂の記録である。過ぎ去ったあどけない日々のかがやきを哀しみ、胸を噛む悔いに震える、そんな旋律を、読者はひとりひとりの耳で確かめることができるだろう。
林さんが、文学するものの心の据えようを初めから備えていたのは、父親の影響だった。そう思う。青梅の地で精密機器か何かの会社の社長をしながら、絵を描き、詩をつくる趣味人であった。千家元麿など、著名な詩人との交流もあったという。経済人であると同時に、芸術家的気質をつよく持っていた父親と林さんとは、子どもの頃から通じる気脈があった。林さんの人一倍過敏な質を、父親はよく理解し、またそれを愛した。
四歳のわがカタツムリの挿絵ある同人誌ありし父の引き出し
反抗期のわがため父の買いくれし眠り人形長き睫毛よ
仏壇に向かえば吾は子となりて菜の花ずしの良きいろ誇る 生家の取り毀し 広縁の日影にペンを執る父の背なか浮かび来その背淋しも
生きてゆくということは、くるしみ。しかし、そのくるしみも、悩みも、よろこびも、すべては過ぎ去ってゆく。人は誰しも生のうちに苦をいだき、そこからしたたりのような香がたちのぼる。行きずりの誰とても、ふとこの苦みをふくんだ香におどろくとき、立ちとどまって、眼をうるませずにはいられない。
麦を踏む母に並びてこきざみにわれも踏みにき嬉しかりにき
幾冊の画帳を抱えカレッジの門入りゆきしわれかがやきて
トパーズはレモン哀歌の香気とて胸に飾りき二十歳のわれは
夏ぞらの青を奪えと木綿を天にかざしてわが染めにけり
赤子泣くからだ震えて赤子泣く桜仰ぎし日のわが夢に
夜の更けを嗚咽するわれに寄りて来て膝につむりを乗せたる猫よ
夕ぐれの大き桜を仰ぎ見つはなやぎたるは去年までのこと
駅頭のベンチに坐るホームレス「まあいいか」とぞ叫ぶ幾たび
うぐいすの囀り聞こゆ見上ぐれば哀しきまでに青く澄む空
阿木津 英
二〇一九年一月四日
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